【映画】『セッション』レビュー

第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、J・K・シモンズの助演男優賞をはじめとする3部門で受賞した『セッション』のレビューです。伝説的ジャズ・ドラマー「バディ・リッチ」に憧れる若きジャズマンと、彼を教える指揮者との凄まじい戦いを描いた作品。ジャズ界を巻き込んだ論争にまで発展した問題作であるも、音楽映画としての枠組みを超えた鬼気迫るバトルは必見。

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『セッション/Whiplash(原題)』

全米公開2014年/日本公開2015年4月17日

監督/脚本:デミアン・チャゼル

出演:マイルズ・テラー、J・K・シモンズ、ポール・ライザーなど

ストーリー、前半 ※ネタバレなし

アンディ・ニーマン(マイルズ・テラー)はジャズの超絶ドラマー、バディ・リッチに憧れて米名門のシェイファー音楽院に通う19歳。人並みの大学生活に憧れを抱く一方で、夢を叶えるためにドラムに没頭する日々を送っている。

ある日、ニーマンが学ぶ初等クラスにシェイファー音楽学校で最高の指揮者とされるテレンス・フレッチャー(J・K・シモンズ)が訪れる。そこでニーマンはフレッチャーから指名され自身が指揮するスタジオバンドへと招聘される。夢にまで見たプロドラマーへの道が開けたことで舞い上がるニーマン。

しかしそこからニーマンの地獄ははじまる。最初のバンド練習に参加した時にネイマンはフレッチャーの異常なまでの指導法を知ることとなる。時に優しげな態度をとることがあっても、徹底した完璧主義のもとで寸分の狂いも許さず、ひたすらメンバーたちを精神的に追い込んでいくフレッチャー。そしてその矛先はネイマンに向かうことになる。納得できるリズムが刻めるまで先へは進めさせず、椅子を投げつけ、頬を殴り、耳元で叫び、挙句はメンバーの前でネイマンの秘密を暴露し屈辱を与えるフレッチャー。

度重なる精神的かつ肉体的な虐待にも耐えながら、ニーマンはフレッチャーを見返すことだけを目的にしてさらに練習に打ち込んでいく。恋人と別れ、スティックを血で染めながらも、「偉大な」ドラマーになる夢のためにニーマンは全てを捧げる。

鬼のようなフレッチャーと対峙しながら、ニーマンもまた音楽という狂気に焼かれようとしていた。

※ストーリー後半(ネタバレ)はページ下から次のページへ※

レビュー

ジャズを題材とした映画ということで邦題は「セッション」となったが原題の「Whiplash」とは鞭が跳ね上がる様を指すと同時に、緊張状態が続いた時に感じる首から背中にかけての痛みや「むち打ち」も意味する。長時間パソコンで作業をしていた時に感じる首から背部への痛みであり、ドラマーにとっては職業病のようなものだ。実際50年代のビバップジャズ全盛の頃には体力的にも怪物的なプレイヤーが多数存在し、夜通しフルスロットルで演奏することも珍しくなく、プレイヤーだけでなく観客もまた音楽を楽しむということがある種の「勝負」だったのだ。

そして本作、まさに原題の「Whiplash」の通り、観ているだけでも首が痛くなるほどに力が入ってしまう。

ジャズ映画といえば本作でも重要なエピソードとして登場するチャーリー・パーカーの半生をクリント・イーストウッドが監督した『バード』や、パリに流れ着いた孤独な老ジャズマンを描いた『ラウンド・ミッドナイト』など、退廃、刹那、孤独などといったイメージとしての「ジャズ」に寄り添った作品たちがまず浮かぶ。特に『ラウンド・ミッドナイト』はジャズピアニストの先駆バド・パウエルのエピソードを、これまた実際のジャズの巨人デクスター・ゴードンが演じ、ハービー・ハンコックが出演と音楽を担当し、過ぎ去った過去(=ジャズ)を懐かしむような作品となっている。チャーリー・パーカーがその名声と引き換えるように堕ちていく姿を描いた『バード』も『ラウンド・ミッドナイト』も「ジャズは死んだ」もしくは「ジャズはもう帰ってこない」ことを前提に描かれており、どちらにせよ「ジャズ」的な感傷に浸るにもってこいの作品たちだ。

しかしこの『セッション』はそれらとは全く違っている。ジャズ映画であることは間違いないが、本作におけるジャズは過去を懐かしむためのものでもなければ人生を振り返るためのものでもない。ここでは、ジャズは、誰かを追い詰め、誰かを殺し、誰かに復讐するための手段として描かれている。この点が本作の評価を分ける部分で、作品としては面白いのだが、その描き方にはあまり納得できないというのが正直な感想だった。それは昔のスポ根ドラマを見るような感覚に近く、物語の高揚感を優先するあまり、設定に現実感が追いついていないという印象だった。

ニーマンがフレッチャーに追い詰められて狂気に駆り立てられていくという過程も、ニーマンがジャズに固執する理由が十分に描かれておらず説得力がないし、そもそも19歳の青年がバディ・リッチのような「偉大」なドラマーになりたいというかなり特異な夢を持つに至る経緯が全く抜け落ちている。両者がユダヤ系であるにせよ、フレッチャーがチャーリー・パーカーを育てるという野望を抱いていることと同様のエピソードは必要だったはずだ。 現在のジャズシーンにおいては、例えニーマンが劇中でも言及されるウィントン・マルサリスの楽団に招かれようともバディ・リッチにはなれないし、パーカーのような名声も手にすることはできない。それはニーマン自身が一番知っているはずだ。それでもなぜニーマンは自分の身を文字通り削ってまでジャズにのめり込んでいくのか、劇中からは伝わってこなかった。

そしてフレッチャーも自分のハラスメントまがいの教育を、チャーリー・パーカーのようなミュージシャンを生み出すためと自己弁護するのだが、パーカーの真骨頂とはあらゆる音楽的経験を即興でフレーズ化できるそのひらめきにあったのであって、決められた譜面を確実に吹けることにあったのではない。この点はフレッチャーの分裂気味な人格に因るところなのかもしれないが、パーカーに関する逸話もとってつけた感が強い。「キャプテン翼」に無理やりメッシが登場させられているような気分になる。

最後の愚痴として本作の舞台はニューヨークにあるシェイファー音楽院ということだがこれは架空の学校で、実際はニューヨークのジュリアードとボストンのバークリーを混ぜた感じだろうが、実はここが一番気になった部分。ジャズミュージシャンの卵たちが集まる場所ということではボストンを舞台にしたいところだが、この激しい物語を描くためには牧歌的なボストンではなくニューヨークである必要があったのだろう。こういった強引さは物語の最後まで残った。

本作は一般的には高い評価を受けているがジャズ界隈からは手厳しい意見を多く聞く。それはスポ根ドラマで描かれるスポーツの実際の選手たちが、その描写に違和感を覚えることと似ているのかもしれない。しかもジャズにはうるさ型のファンも多いので尚更だろう。

しかしそれでも多くの人が指摘する通り、最後のドラムバトルには思わず力が入り身を乗り出してしまった。いろいろ言いたいことはあっても、あれを見せられれば拍手せざるを得ない。最後に全てを持って行かれてしまう作品だった。

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※次のページにストーリー後半のネタバレあり※

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