『セッション』に関する菊地評と町山評を私的に整理する。

映画『セッション』を酷評したジャズミュージシャン菊地成孔氏に対して、映画評論家の町山智浩氏が反論。私的に整理してします。

Brody Whiplash 1200

映画『セッション』はアカデミー賞でも話題になり絶賛される一方でジャズ関係者からはあまり良い評判は聞かず、本国アメリカでも論争になった。そして日本公開が始まって、その論争が来日。口火を切ったのはジャズミュージシャンで文筆家の菊地成孔氏が自身のサイト発表した『セッション』の酷評。それに対し『セッション』にコメントを寄せていた映画評論家の町山智浩氏が反論するという形です。まずは両者の意見を読んでみてください。

菊地成孔氏による『セッション』評: 「セッション!(正規完成稿)~<パンチドランク・ラヴ(レス)>に打ちのめされる、「危険ドラッグ」を貪る人々~」

町山智浩氏による反論:菊地成孔先生の『セッション』批判について

まず本記事を執筆するにあたり、私見を述べさせてきただくのなら、『セッション』を鑑賞して最初に感じたこととしては菊地評に近い立場です。レビューでも書きましたが、この映画の設定には最後まで馴染めませんでした。しかし映画鑑賞後に町山氏の反論を読み(菊地評の存在はその時知る)、本作の物語としての齟齬がラストの一瞬一点に回収されているという構図の説明は非常に腑に落ちました。じゃあ、本作への意見を変えるのかというと、それも違います。まず両者の意見の食い違いから説明したいと思います。

※本記事にはネタバレがあります

菊地成孔は何に怒っているのか?

菊地氏の文体は、即興的な雰囲気(筒井康隆風)があって決して読みやすい文章ではないですが、それでも彼の怒りに関しては自分なりに解釈できました。細部への批判については町山氏も同意するようなのでここでは問題にしませんが、やはり彼の怒りの対象は本作に描かれる「ジャズ観」に対するものと捉えて間違いないと思います。それは言い換えれば、

  1. 本作が取り上げる「最高の音楽学校」で教えられる「ジャズ」とは白人主義的で権威主義の象徴
  2. 本作でも重要なエピソードとして登場するチャーリー・パーカーは、その「1」のジャズとは対極の存在
  3. 本作の「ジャズ観」が「1」に基づき、そのなかにチャーリー・パーカー的なジャズまで含んでいること

つまりジャズは明確に「白いジャズ」と「黒いジャズ」というのが時代的にも音楽的にも線引きされており、それは主に黒人側の怒りと努力によってなされた音楽的な達成なのにも関わらず、本作ではそれを一緒くたにして、「黒いジャズ」まで「白いジャズ」が内包するものとして描いていることに、菊地氏は腹を据えかねているのだと思います。

町山智浩は本作の何を評価しているのか?

一方町山氏は菊地評で挙げられていた多くの物語的齟齬は監督が意図的に張り巡らせた伏線であって、それらはすべてラストの一瞬に回収されているということで菊池評に反論している。菊地氏が本作の「音楽の力」の欠如を示す対比として挙げた自身の実体験(どれだけバンマスが非人間的あろうとも音楽が素晴らしければすべて許される)は、まさに本作でも誕生していると説明します。つまり菊地氏が批判した細部の集合がJKシモンズ演じる指揮者それ自身であり、本作では主人公がそれらをしっかりと乗り越えているとしているのです。

菊地氏の酷評は『ロッキー』をただボクシングの描き方がおかしいという理由で非難するのと同様に、映画としての核心部分に言及していないと映画評論家として反論しています。

菊地は描かれるジャズについて語り、町山は描かれる物語について語る

菊地評では本作の評価を権威的なジャズの描き方から演繹で細部の批判を行っています。一方、町山評ではその演繹的に挙げられた批判点を物語の構造として帰納的に回収して、ラストの逆転描写を理由に本作を擁護しています。

ジャズミュージシャンとして実践家でもあり理論家でもある菊地氏にとって、本作の批判点のすべてはその権威主義的なジャズ描写を発端としている。しかし映画評論家の町山氏は、物語の構造としてあらゆる批判点は最後に逆転されるとする。

この対照性は非常に興味深く、音楽家と批評家という両者の立場からすればある意味当然の乖離とも言えます。そして現時点で菊地氏からのアクションがない以上、町山氏の反論は強固です。

本作で描かれる「ジャズ」とは何か?

ここからはお二人の意見の集約となります。というか僕の言いたいことです。

菊地評への町山氏の反論には隙がないと感じつつ、それでも僕も菊地氏ほどではないにせよ、本作に違和感を覚え今でも消えない理由は、やはり本作で描かれる「ジャズ」というのが非常にフェアではないと思えるからです。そこには菊池氏が感じたであろう、権威主義的に描かれるジャズ描写への怒り以上に、一般に植えつけられてしまった「あー、ジャズね、すごいよね、よく知らないけど」というジャズは「カッコよくて知的で、一味違うと思われたい」奴が聴く音楽、という嫌な認識が本作の裏側に見え隠れしているからです。

本作の主人公はエリート主義的な家族を見返してやりたいという思いからジャズドラマーを志したようです。それが設定として現実的かは無視しても、最初から「ジャズ=権威」というイメージを基にして本作は語られます。つまりそれは菊地氏が中指を立てずにはいられない「ジャズ」であり、チャーリー・パーカーが乗り越えた「ジャズ」でもあり、そして同時にそれは一般の人にも植えつけられてしまった非常に陰湿な「ジャズ」でもあります。「好きな音楽はジャズです」と言えば「すごいね」と半笑いされる、あの腹立たしい「ジャズ」というやつです。僕は今まで何度となくこの「半笑い」を経験してきているし、その度に嫌な気分になります。それは『ロッキー』を筋肉映画として馬鹿にする態度と全く同じに感じられるからです。

では本作のラストにはその嫌な「ジャズ観」は乗り越えられたのか。菊地評と町山評の決定的な違いもおそらくはこの部分での解釈に因ります。そしてそれはほとんど個人の経験に委ねられた分岐点で、菊地氏が本作に絶賛コメントよせる人々のほとんどがジャズに造詣のない人で占められていることへの違和感とも重なります。本作で描かれる「ジャズ観」に嫌なものを感じたか否かでラストの解釈は真っ二つに分かれるのです。

ラストに一体何が起きたのか?

個人的にはラストに描かれる主人公と鬼教官の妙な共感にはがっかりしました。ふたりは確かに音楽を通して互いの対立を一瞬でも超越したのかもしれません。しかしそれは嫌な「ジャズ観」内部での共感であって、言い換えれば妥協のようにも見えました。もしあそこで主人公が鬼教官を完全に無視して彼にスティックを投げつけ舞台から引きづり下ろし、その上で彼から教わったジャズを乗り越え、観客を熱狂させたのならば、また違った印象を受けたでしょう。そうすれば劇中で何度も言及されるチャーリー・パーカーの逸話にも意味が生まれます。彼が白人主体のクラシックジャズから黒人主体のモダンジャズへとシーンを押し上げたことを追体験できるから。

でも結局は鬼教官に指揮を委ねてしまいます。

確かに本作で主人公は鬼教官を乗り越えます。しかし本作で描かれる「ジャズ観」に嫌なものを感じた者にとっては、乗り越えるべきは鬼教官ではなく彼のような人格破綻者を生み、自分も狂わせた現在の嫌な「ジャズ観」の方だと思ってしまうのです。本当の敵は鬼教官ではなく、彼のような人物を最高の指揮者として受け入れてきたその世界にあるのです。そのためには指揮者なんぞ追放しなければなりません。楽譜も破り捨てなければならないのです。それでこそ本当に「偉大なドラマー」になれるのでしょう。

そして最後に言いたい事

上記のような理由から本作を傑作と評することはいたしません。しかし僕は菊地氏のように音楽の良し悪しを論じることができるようなジャズファンではありません。本作に違和感を表明することで音楽通ぶっている訳でもありません。その理由とは決して『ロッキー』を「ボクシングを描けていないからダメ」とする立場からではなく、隠された本当の敵を主人公が気づかぬままに幕が閉じられているように思うからです。

とは言うものの本作の魅力も全否定する訳ではなく、映画としての面白さは十分に伝わりました。いっそのこと『ロッキー』のように続編が作られていき、本当の敵は鬼教官(=アポロ)じゃなく別にいて、今度は一緒に戦おう、という展開を期待したいくらいです。

ということで菊地評への町山反論を機会に、本作の言いたいことを全部吐き出してみました。ぜひ劇場でご鑑賞あれ。

以下追記;2015年4月20日

町山氏の反論に対し菊池氏から返答がありました。

町山さんにアンサーさせて頂きます(長文注意)

中身に関してはここでは言及しませんが最高ですね。きっと菊池氏はこのやり取りをマイルズ・デイビスとセロニアス・モンクのいわゆる「喧嘩セッション」に重ねていますね。

マイルズとモンクの「喧嘩セッション」とは1954年のクリスマスに行われたレコーディングで二人が一触即発となりそのピリピリ感が収められているというのが『Miles Davis And The Modern Jazz Giants』のなかの『The Man I Love(take2)』という曲。これ以降二人は共演していないことからも、これは伝説の「セッション」といわれています。しかしこれにはオチがあって、実は周りの証言では二人は別に喧嘩したわけではなかったというのです。ただ単にグルーブが合わなかっただけ。それでも二人とも意地があるので、お互いが譲り合うなんて野暮な真似はしません。妥協なんて考えない二人なのです。

今回の菊池・町山論争は読み応え(聞き応え)十分でした。これこそ最高にグルーヴィーで、緊張感たっぷりの「セッション」です。

以下追記:2015年4月22日

菊地氏から前述のアンサーに加えるように、ブログが更新されました。

町山さんに撃敗(笑)

町山氏への支持が集まる現状をボヤきつつも、町山氏のアメリカ化を指摘し、途中から<菊地成孔の新宿在住日記>を公開するなど散々煽りながらも、最後にはライブ告知する流れ。でもこの町山氏=保安官説はなかなか面白い。これまで町山氏に血祭りに上げられてきた数々の「タカシ」たちとは違って、がっぷり四つ状態。

そして先日の菊地アンサーと前出のブログに対して、町山氏から返信がありました。

『セッション』菊地成孔さんのアンサーへの返信

当初は怒りから燃え上がった二人の論争が、いい意味で毒っ気が消えて素晴らしいプロレスになっています。ファッションに詳しい菊地氏へ当てつけるように、10年前のジーンズメイトのスウェットをまだ愛用しているという衝撃のカミングアウトを行った町山氏。しかもこれだけ貢献しておきながらお中元もお歳暮も寄越さない日本の映画会社の薄情さまで暴露。さりげなく夏のお歳暮の催促までしています。今回の町山さんの返信は、まさに愛ある投げっぱなしジャーマン。危険な技ですが、そこはかとない愛を感じませんか。

僕は『セッション』には残念ながらハマれなかったけど、この論争はとても勉強になりました。映画もジャズも好きなただのファンとしては敬愛するお二人の対立は見たくなかった、なんてことは全然なくてメチャクチャ楽しみました。菊地さんが怒りのジャズ解説を行うのも、町山さんが怒りの映画解説を行うのも久しぶりのように感じます。菊地さんは最近はヒップホップと韓流方面に忙しそうですし(批評関係では)、町山さんもこれほど激しい映画論争されるのは『ハートロッカー』以来では。もちろん批評に正解はないけれども、プロである以上は時として波風立てなければならないこともあるという点において、二人は共通していると思います。

なんか終わってしまいそうで寂しいですが、次は字多丸さんが燃料投下してくれることを期待しています。

以下追記:2015年4月28日

菊地氏からリアクションがありました。一つ一つの町山氏の言説に丁寧(?)に対応しており、今回も読み応えバツグンです。

「町山さん手打ちにしませんか(笑)

菊地氏は団塊世代の印象派ジャズ批評をほとんど一人で一掃した人物だけあって、エンジン全開の鋭さです。途中に「あったかいんだから〜」と旬なネタを放り込みつつ、批評のあり方を巡っても町山氏の『セッション』擁護に反論している。特に文中で言及される、

過度な絶賛の集中は、はっきりと権力です。なぜなら悪評をサイレント封殺するので。アメリカ人ジャズメンの「セッション!」への、ワタシどころではない悪罵は、日本では全く紹介されません。

という部分には強く共感。擁護が異なる意見の暴殺となるような風潮には注意したい。

一応、菊地氏はタイトルからも「手打ち」を宣言しているようだが、この真っ向反論に対して町山氏はどう動くのか。まだまだこの論争は続きそうです。

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