映画レビュー『さようなら』-アンドロイドも生きていい未来

劇作家、平田オリザとロボットの世界的研究者の石黒浩は共同で進める人間とアンドロイドが共演する舞台劇の映画化作品。放射能汚染が進む日本を舞台に、もろく死にゆく人間と永遠のアンドロイドが共有するメメントモリ。劇場公開は2015年11月21日より。第28回東京国際映画祭コンペ部門出品作。

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『さようなら』

日本公開2015年11月21日/ドラマ映画/日本/112分

監督:深田晃司

脚本:深田晃司

原作:平田オリザ

出演:ブライアリー・ロング、新井浩文、ジェミノイドF(レオナ)他

あらすじ

原子力発電施設の爆発によって国土の大半が放射性物質に汚染され、政府が「棄国」を宣言した近未来の日本。国民が次々と国外へ避難していく中、外国人の難民ターニャと、幼いころから病弱なターニャをサポートするアンドロイドのレオナは、避難優先順位下位のために取り残される。多くの人が消えていくなか、やがてターニャとレオナは最期の時を迎える。

参照:eiga.com/movie/82572/

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レビュー

やがて、アンドロイドも生きていい未来:

第28回東京国際映画祭のコンペ部門に出品され、「世界で初めてロボットが演技賞を受賞するか」と話題となった『さようなら』は、もちろんアンドロイドが主要な役柄を演じることがテーマの映画ではなく、言うなればアンドロイドが主要な役柄を演じることで観客の認識のあり方を問い直す実験的な作品となっていた。

劇作家である平田オリザとロボット研究者の石黒浩との演劇プロジェクトの映画化作品で、原作がたった15分ほどの舞台劇ということもありストーリーそのものに真新しさはない。放射能汚染が深刻化した日本で国民は次々と国外へ脱出し難民化しているという背景のなか、ひとりの外国人女性と彼女をケアするロボットが、異国の地日本で命を終えていく。

核、放射能、世界の終わり、そして生命の終わり、というプロットは何も珍しくない。それどころか本作の大筋は1959年にグレゴリー・ペック主演で映画化された『渚にて』と酷似している。放射能がもたらす致死的な虚無感と、個人の意思で選択される死。そして物語のなかで引用される詩。本作『さようなら』では谷川俊太郎やランボー、特に印象的な場面では若山牧水が引用され、『渚にて』ではT・S・エリオットの『うつろな人間』が作品のトーンを印象付けている。『渚にて』が後に『地獄の黙示録』のカーツ大佐や村上春樹の小説にも登場する『うつろな人間』を主要なサブテキストとして虚無感を演出したのに対し、本作では数多くの詩が引用される。たった15分という舞台劇においてはサブテキストによる世界観の補完として機能したのかもしれないが、2時間近い映画作品では逆に散らかった印象になる。他にも舞台演劇的な大げさな演出が足を引っ張っていた。

しかし本作にはアンドロイドが登場する。登場するだけでなくアンドロイドが詩を朗読する。詩(ポエム)の語源がギリシア語で「創作」を意味するポエシスであることからも、詩とは人間の感情や想像力の最も身近な発露だと考えられる。それを敢えてデータベースの集積であるアンドロイドに朗読させることが、おそらくは本作の狙いだったのだろう。

幼い頃から病弱だった主人公をケアする目的で買い与えられた旧式アンドロイドのレオナは、外見上は表情もなく見るからにロボットである。一方で彼女の声は淀みなく、ほとんど人間の発声と変わりない。詩を朗読することに関しては、レオナは人間とほとんど同義になることができる。一方で劇中に何度も繰り返されるように彼女に感情はない。彼女が知り得る感情のあり方とは、彼女が仕える主人公の反応をアーカイブ化することで導き出されるもので、決して自発的なものではない。

しかしレオナの朗読する詩は、主人公に感動をもたらす。一見すると場違いな詩のチョイスだったとしても、レオナは主人公女性の感情を事後的にデータベース化しているから当たり前だ。レオナは主人公以上にその感情を読み取ることができる、言わば主人公にとっての最良の友なのだ。

冒頭で本作を「観客の認識のあり方を問い直す」作品と述べたが、それは「アンドロイドもやがて人間と変わらなく見えてくる」という意味ではなく、アンドロイドはどこまでいってもアンドロイドであり人間とは違うという事実を強調した上で、レオナは実はアンドロイドとして人間とは違う意識や感情を持っているのではないかと思わせることにある。つまりアンドロイドのレオナが「生きている」と思わせることに成功しているのだ。

また本作に登場する人間は皆、形は違えど主人公を裏切る。特に新井浩文演じる主人公の恋人の存在は、アンドロイドと人間の関係の特殊さを際立たせる、程よい存在感があった。レオナは絶対に主人公を裏切らない。もちろんそうプログラミングされているからなのだが、しかしレオナはプログラミング以上に、自分の存在を失わないため、つまり生き続けるために主人公を裏切らないとも受け取れる。そこに意思があるように見えてくる。

そしてアンドロイドの生は、主人公(人間)が死んでから、より際立ってくる。本編のエンディング部分がほとんど独立した映像作品と思わせるほどに長い尺を与えられているのはそのためだ。人間が死んだからといって物語が終わるわけではない。アンドロイドも生きていいのだから。

映画としてはやはり実験性が強い作品となっており好き嫌いが分かれそうだが、今年『エクス・マキナ』という人工知能の暴走の極限を描いた作品から受けた衝撃とは全く違った形で、アンドロイドの未来を見せられたようになった。アンドロイドは人間からの一方的な認識によって存在するのではない。

やがては、アンドロイドもアンドロイドとして「生きる」こと、そして「死ぬ」ことができる日が訪れるのだろうか。

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ということで『さようなら』のレビューでした。ほんの数週間前に古いSF映画をまとめて観ていたため、『渚にて』が頭から離れませんでした。というか、たぶん意識してますよね。あと全然関係ないけど藤原新也の『メメント・モリ』も思い出しました。こういう映画は嫌いではないですが、ちょっと映画としては舞台臭が強かったのが残念です。村田牧子のエピソードはもっと短くして、新井浩文との関係を深く描いたほうがよかったかなと。それでも多くの余白が用意されている映画は好きです。劇場公開は2015年11月21日より。おすすめです。以上。

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