映画『造られた殺人』レビュー

報道と真実の危うい関係をブラックユーモアたっぷり描き出す韓国映画『造られた殺人』のレビューです。誤報をスクープとして報道した記者と、誤報と知らずにスクープ記事の後追い記事を迫る上司、さらに事実を追い求める刑事との緊張関係から「真実」の行方をあぶり出すサスペンス・スリラー。

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『造られた殺人』

日本公開2016年11月19日/サスペンス/125分

監督:ノ・ドク

脚本:ノ・ドク

出演:チョ・ジョンソク、イ・ミスク、イ・ハナ、ペ・ソンウ

レビュー

いったいどれほどの人が「真実」と「事実」に違いを明確に指摘できるだろう。

一般的に「事実」という言葉の意味は広く知られている。これは実際に起きた事柄であったり、現実に存在する事象を指す。

一方で「真実」という言葉の意味は、その響きに組まれる絶対的正義感に比べると、なかなかセコイというのが本当のところ。真実の対義語とは「嘘」であり、つまり「嘘」のない事柄とは「真実」ということになる。

本作『造られた殺人』を観ていると、この「嘘のない事柄が真実」という言葉の定義こそが、現在のジャーナリズムの迷走ぶりを象徴しているようで興味深い。

では「嘘」とは一体どんなものなのだろう。例えば元女優が大麻を吸っていないと公言していたのに吸っていた事実が証明された場合、彼女は嘘をついていたことになる。一方で高い金を払ってまで呼び出された結婚式で、その引き出物にクソみたいな水素水装置を送られて嬉しくなんて全然ないのに「ありがとう、超嬉しい」と答えるのも嘘だ。しかし同じ嘘でも社会のリアクションは正反対だ。前者は徹底的に抹殺され、後者は「空気を読んだ」として評価されてしまう。嘘とは絶対悪、という姿勢を公平に徹底するのなら、この世に春なんてものは来ない。

「嘘」なんてものは一定範囲内での主観が大きく作用する不確かな言葉で、200万円の壺が詐欺に使われることもあれば、博物館で眺められることもある。要はその価値を信じるか信じないか、という不確かな個人の感覚に依存しているのだ。そしてそんな「嘘」の有る無しに寄って集っている「真実」なんて言葉も「嘘」同様にいい加減なもので、「真実に嘘はない」という当たり前の表現がそもそも嘘かもしれないという意味不明な事態に陥る。

つまり「事実」が絶対的でひとつしか存在しない一方で、「真実」というのは見方によっていくつも存在し、主観によっていくらでも「捏造」されてしまうものなのだ。

「真実」と「嘘」をめぐる言葉の意味の相互参照とは、真面目な顔して正義を求めれば求めるほどに、滑稽になる。この明白な事態をそのまま物語として描いて見せたのが『造られた殺人』だった。

離婚とリストラの危機に瀕していた記者ホ・ムヒョクは、職場にかかってきた一本の電話を受け取ったことで偶然にも、社会を揺るがしていた未解決の連続殺人事件に関する特ダネを掴むことになる。その報道のおかげで会社からも厚遇され、立場は一気に逆転するも、後追い取材の結果、その特ダネは真っ赤な「嘘」だったことが判明。つまり誤報だった。

しかしムヒョクが誤報だと分かっても、報道は止まることはない。その特ダネのおかげで連日高視聴率を稼ぎ、ムヒョクも誤報という「事実」を伝えることができなくなる。

一方で警察は報道に先を越されることになり大混乱となるのだが、あまりに都合のいい展開にムヒョクが「事実」を伝えているのか疑いを持ち始める。

ひとつの小さな嘘は、やがて新しい殺人へと繋がっていき、そして新しい「真実」まで生み出すことになる。

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嘘と真実は対義関係にありながら、意味的に共依存関係にもあるという蟻地獄。本作はジャーナリズムの矛盾をあぶり出す社会派映画の一面を持ちながらも、殺人事件をめぐるスリラーと、ブラックなユーモアで貫かれたコメディを合わせるという絶妙のバランス感覚で成り立っている。

物語は表面的には3者の思惑から進んでく。

まず主人公のムヒョク。彼は報道記者という立場から7人もの被害者を生んでいる連続殺人事件の真相に繋がるスクープをほとんど偶然に手にするのだが、その情報が公になって大騒動に発展した頃になって、誤報だったことに気がつく。

そしてムヒョクの上司で報道局長のペクは、ムヒョクのスクープを大々的に報じ、警察の制止を振り切りながらもセンセーショナルに事件の煽るように報道する。ムヒョクはペク局長にそれは誤報だという「事実」を伝えようとするのだが、意志の弱いムヒョクは結局懐柔されてしまう。

一方で事件を追い続ける刑事のオ班長は、ムヒョクの煮えたぎらない態度に嫌疑の目を向け、その情報の真偽を疑いはじめる。

この3者の思惑が入り混じりながら前半は、いつムヒョクの「嘘」がバレるのだろうか、というサスペンスで緊張感が助長される。つまりムヒョクが知る「事実」がいつ公になるのか、という一点で物語は進んでいく。彼は自分からその事実を公表するのか、それとも刑事に真相を突き止められるのか?

しかし物語は後半から一気に驚きの展開へと突入する。前半はムヒョクの独り相撲と「暴走する報道」という視点から描かれるため意識的に隠蔽されることになるのだが、そのスクープが誤報だと知る人物は、ムヒョク以外にも存在する。それはムヒョクに「嘘」を伝えてしまった情報提供者と、そして実際に7人を殺害した犯人その人だ。この新しい視点が持ち込まれることで、事件そのものが思いがけない展開を見せる。

物語の前半はムヒョクの誤報にのみフォーカスされる。誤報でありながらもそれを「真実」だとして疑いもしないメディア。彼らが本当に関心があるのは唯一の「事実」ではなく、自分たちが「真実」だと信じたいだけの「真実」でしかないことが描かれる。しかもその「真実」には致命的な嘘が含まれていることに気がつかない。なぜなら彼らにとってそれは絶対的な「事実」だから。

本作が特出しているのは、その後の展開の方だ。このメディアが「事実」と信じただけの「 嘘」が、ある男の思惑によって「真実」に変えられてしまうのだ。つまりムヒョクの誤報が「事実」だと裏付けるような新たな殺人事件が起きるのだ。

この「 嘘」、「真実」、「事実」という三角関係が、ムヒョク(嘘)、ペク局長(真実)、オ班長(事実)という三者によって体現されていたことが後半に明らかになる。そして突如登場するトリックスターが、この三者関係を混乱の極致へと誘い出す。

言葉にすると複雑になる様々な思惑をコメディタッチでうまく交通整理してみせた監督の力量や、それを可能にした脚本の完成度には驚かされる。そして報道の役割を「善悪」や「正誤」という単純な二分化で語ろうとする昨今のメディアの姿勢も皮肉たっぷりに描いており、そういった傾向は決して日本だけでなく韓国でも同じことを知る。

最近の日本のメディアは本当にヒドいと思う。視聴者の顔色ばかり窺い、抗議されればすぐに撤回と謝罪。これはそもそも自分たちの報道に自信がないから起こる事態で、何でもクレームをつけて憂さ晴らしするユーザーの短絡さと表裏一体なのだ。こんな体たらくでは「事実」を伝えることなんてできない。早晩にテレビや新聞にはメディアが信じたいニュースと、視聴者が信じたいニュースが手を取り合って共存するためにでっち上げられた「 嘘」まみれの情報で溢れることになるだろう。しかも当の本人たちはそれが「事実」だと信じて疑っていないからたちが悪い。

冒頭で指摘した通り「事実」と「真実」は違う。メディアが属すべきなのはどちらなのか、本作を観ればよくわかると思う。

『造られた殺人』:

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造られた殺人
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