映画『ミッドナイト・スペシャル(原題)/Midnight Special』レビュー(ネタバレあり)

ジェフ・ニコルズ監督作『ミッドナイト・スペシャル(原題)/Midnight Special』のレビューです。超常的な力を持った一人の少年を巡る追跡劇を描くSF映画。主演はマイケル・シャノン。本作のタイトルに秘めれらた意味と、その「光」が指し示す先にあるものとは? 2016年上半期ではベストな一作。

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『Midnight Special』

全米公開2016年3月18日/日本公開未定/SF/111分

監督:ジェフ・ニコルズ

脚本:ジェフ・ニコルズ

出演:マイケル・シャノン、ジョエル・エドガートン、キルステン・ダンスト、アダム・ドライバー、サム・シェパード、ジェイデン・リーベラー

レビュー

はじめにお断りしますが、このレビューは非常に長いです。読みやすように、「ネタバレなしの解説」と「SF映画の現在地」と「ネタバレあり(モロバレはなし)の解説」の3章に分けていますが、それでも長くてちょっと怨念じみているかもしれません。でも久しぶりにブルブル震えるような映画でした。ずっと長い間「いつか観たい」と思っていた映画がコレです。俺が書かずに誰が書く!という気分なんで、よろしくお願いします。

ネタバレなしの解説

例えばアラン・パーカー監督作『ミッドナイト・エクスプレス』(1978)のその「深夜特急」とも訳されるタイトルがトルコの刑務所に投獄された者たちにとって「脱獄」を意味したことと同じように、『Midnight Special/ミッドナイト・スペシャル』というタイトルにもただの「夜行列車(Specialには臨時急行という意味もある)」という以外に特別な意味がある。

20世紀初頭に活躍したブルースシンガーで、あのカート・コバーンも敬愛していたレッドベリーの曲「Midnight Special」は、彼自身が度重なる暴力事件で服役を繰り返していた経験をもとに書かれた曲だ。

Let the Midnight Special shine her light on me
ミッドナイト・スペシャルよ、きみの光で俺を照らしておくれ

Let the Midnight Special shine her ever-loving light on me
ミッドナイト・スペシャルよ、きみのその愛しい光で俺を照らしておくれ

この部分だけを切り取れば甘いラブソングにも聞こえるかもしれないが、実際はとある刑務所について歌った曲である。場所はヒューストンのシュガーランド刑務所。この曲のなかで歌われる「Midnight Specialの光」とは、ヒューストンを出発した臨時の夜行急行が深夜の刑務所を照らし出すヘッドライトのことを意味している。ここで「きみ」と訳した対象とはつまり「Midnight Special/深夜列車」のこと。そして明日のない獄中生活を送る囚人たちは、時々現れては去っていく人工の光に自らの自由への渇望が重ねることになる。いつしかシュガーランドの囚人たちにとって、「Midnight Special/深夜列車」の光が特別な意味を持つようになった。

いわく、あの光を全身に浴びれることができればあの列車に乗って刑務所の外の世界へと出ていけるという。

この前知識はジェフ・ニコルズ監督作『Midnight Special』を観る上で欠かかすことはできない。もちろんそんなことを知らなくなってこの映画に感動できる。しかし劇中で何度も登場する様々な「光」の在り方について意識的であるか否かということは、作品への共感性に著しい影響を与えるはずだ。もしこの映画をただの「スピルバーグ風SF映画の現代版」とか「ディズニーの『トゥモローランド』のシリアス版」とか、そんな安易な感想で済ませてしまうようならば、おそらくは本作で描かれる「光」の意味に対して全く無知だったことを意味しているのだろう。別に他人の感想にケチをつけるわけではないのだが、この映画に「数年の一度」クラスの感動をもらった身としては、ただのお節介とは承知しつつも、一言二言付け加えたいことがある。

本作のあらすじをネタバレなしに紹介すればこうなる。

超能力を持った少年が、カルト教団と政府から追われている。少年には行かなければならない場所がある。彼の父親とその仲間は命をかけて少年を守りながら、その目的地まで届けようとする。

ただそれだけだ。

そして物語の展開においていくつかの類似するSF映画を挙げることができるだろう。そのなかでもやはりスティーヴン・スピルバーグの『E.T.』と『未知との遭遇』は外せない。また監督自身が影響を受けた作品としてジョン・カーペンター監督作『スターマン/愛・宇宙はるかに』を挙げていたり、予告編でも登場するように少年の目が光ることなどは『光る眼』を彷彿とさせる。また日本のアニメ映画『AKIRA』の世界観も色濃く反映されている。これらの作品は時代的には重なる部分が多いが内容としては広くSF作品という括りでしかまとまらない。『E.T.』と『AKIRA』はぜんぜん違う。

つまりは本作は特定のジャンルから影響を受けたというよりも、1978年生まれのジェフ・ニコルズ監督が少年時代に触れた様々なイメージとしての刺激が、再構築された作品と言えるだろう。監督とほとんど同世代の筆者(1980年生まれ)はそれをはっきりと感じられた。そしてそれらの作品群を繋ぐのは1980年代というディケードだけでなく、共通する「光」へのイメージにもある。

指先が光る宇宙人『E.T.』や、宇宙船がまばゆい光を放つ『未知との遭遇』、不思議な光の球体が登場する『スターマン』、異星人が地球侵略のために子供に成り代わった証としての『光る眼』、そして奇妙な少年少女たちが持つ世界を軽く破壊するほどの力が光で表現された『AKIRA』など、「光」が印象的に登場する作品ばかりだ。言い換えれば映画としての主題部分が「光」という特殊効果で表現された作品たちだ。

80年代という時代にあって「光」とはSF映画にとってなくてはならないものだった。

その「光」の意味については作品ごと、もしくは時代ごとに独立したものになるが、本作に限って言えばジェフ・ニコルズ監督がデビュー作『Shotgun Stories』から『テイク・シェルター』、『MUD』と一貫して描いてきた「現代神話の構築」という文脈のなかで説明ができるだろう。ジェフ・ニコルズ監督がそのデビュー作『Shotgun Stories』でウィリアム・フォークナーやフラナリー・オコナーといった南部ゴシックの作家たちがごぞって描いた南部神話を文字通りショットガンをぶっ放し再構築して見せたように、本作ではその「光」をもってして80年代に語られたSF映画を乗り越えようとした。

本作『Midnight Special』とは80年代のSF作品が描いた「光」に魅せられて育った男が、21世紀の現在でもその「光」に価値を見出そうとした挑戦である。しかもその試み自体が優れたSF映画でもあるという奇跡のような映画でもあった。

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SF映画の現在地

SF映画が本当の価値を持った時代とはぎりぎり90年代までなのだろう。わざわざ50年代からの本格SF映画の歩みを説明することはしないが、少なくとも現代のSF映画の価値とは、90年代まで何とか生き延びたそれとは全く別のものなってしまった。

決定打は93年の『ジュラシック・パーク』だった。乱暴な言い方をすれば、ただ恐竜が人間を襲い狂う、というだけのストーリーを映像演出だけで説得力をもたせることに成功した『ジュラシック・パーク』は「最低限の科学的説明」を予め担保してしまえば、それ以上の価値や意味のすべてが、扇情的且つ技術的な映像表現によって回収できてしまうことを証明した。わかりやすく言えば「見世物」もまた映画であると高らかに宣言し、その受け皿として「SF」は新しい価値を見出された。これまでは「見たいけれども現実的には見られない」もの、もしくは「描きたいけどリアルにはまだ描けないもの」として「光」でぼやかされてきたSF的主題が、CGの出現(それに付随する映像演出)によって、誰の目にも見えるものになってしまった。この時点で、観客に何の知識も経験も要求されず、ただ金を払えば平等に体験できる「見世物」としてのSF映画が誕生する。

なぜ『ブレードランナー』の続編は長く実現せず、『ターミネーター』は「2」(1991)を境に徐々につまらなくなってしまったのか? それは時代の流れとともSF映画そのものの価値が歪んできたからに他ならない。逆にその張本作品とも言える『ジュラシック・パーク』の最新作が2015年にシリーズ最大のヒットを記録した理由こそが、SF映画の「見世物」化のひとつの証左でもある。『ジュラシック』シリーズのSF性とはその「見世物」 性と同義である以上、映像技術の発展に従いその価値は高まっていく。はっきり言って『ジュラシック・ワールド』のストーリーなんて凡庸以外の何物でもない。あらすじだけを見れば93年の『ジュラシック・パーク』から経過した20年という時間以外は何もアップデートされていない。それでも誰もストーリーなんて気にしない。どれだけリアルに恐竜が人間を襲うのか、その一点に価値が集約されているためだ。

つまり90年代以降のSF映画とはCGやデジタルVFXというトレンドに魅入られ、旧来の評価対象だったストーリーや登場人物の関係性、社会的比喩といった「知的」な要素を切り捨てることを(望むと望まざるに拘わらず)選んだのだ。結果、ロバート・A・ハインラインが定義する「科学的知見に基づく実現可能な未来の予測」というSF作品の最低限のマナーさえも無視し、ただ宇宙人が攻めてくる映画(『インデペンデンス・◯◯』)や、隕石が落っこちてくるだけの映画(『アル◯◯ドン』)や、冗談みたいな世界観をフランス人がおしゃれに撮っただけの映画(『フィフス◯エレメント』)が、まるで時代を代表するかの如き厚顔さでSF映画と名乗るようになる。

『ジュラシック・パーク』以降でまともなSF映画と呼べる大作となれば『マトリックス』くらいなものだろうが、それも『ターミネーター』同様にシリーズが進むごとに「見世物」化していき、そもそもの魅力を失っていくことになった。「見世物」ではないSF映画を現代で真面目に作ろうとすれば、『LOOPER/ルーパー』や『プリデスティネーション』のような時間論的サーカス脚本(原作)を引っ張り出してくるか、『第9地区』や『ウォーリー』のように現実の社会問題と直接結びつける以外に方法はないのだろうか。もちろんクリストファー・ノーランが『インセプション』や『インターステラー』で試したことは無視できないが、それは旧来のSF映画と「見世物」映画との折衷であって、最新技術による「ボルヘス的世界の映像化」以上の価値は見入出せない(その質は高いが)。

その価値や意味が「光」に覆われていた作品に魅せられた経験がある者にとって、この90年代後半から如実になるSF映画の見世物化というのはどうしても受け入れられない。同じSFというジャンルでありながら、『ブレードランナー』と『アルマゲドン』は全く価値の種類が違うのだ。いつからSF映画は薄っぺらい感動や、不純物まみれのドラッグ程度の興奮作用しかなくなったのか。『未知との遭遇』を観たときの外の世界が放つ光を前に立ちすくんでしまいような感動はそんなもんじゃなかった。『AKIRA』を観たときのひたすら未来の光に向けて走り出したくなるような興奮もそんな紛い物ではなかった。

SF映画が「見世物」となってしまった現在で、あのときのような感動を再現したいとすれば何をすればいいのか?

ジェフ・ニコルズ監督の答えが『Midnight Special』だった。そしてこれ以上の説得力を持った回答を他に知らない。

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<ここから『Midnight Special』のネタバレが含まれる可能性があります(モロバレはないですが)

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ネタバレありの解説(モロバレではない)

『Midnight Special』は真っ暗なスクリーンに8歳の少年の失踪を告げるテレビの音声だけが響く場面から幕を開ける。これはアンバーアラートと呼ばれる一斉速報で、子供が巻き込まれた誘拐事件や失踪事件などが発生した場合に地域住民に捜査協力を依頼する目的で行われるものだ。

そして次に映されるのが2名の男と、水泳用ゴーグルを掛け布団を頭からかぶり懐中電灯で漫画を読む少年だった。テレビで誘拐犯として指名手配されている男をマイケル・シャノンが演じ、その息子こそが「誘拐された」とされる少年のようだ。実は少年は誘拐されたわけではなく、何かから逃げているようだった。ジョエル・エドガートン演じるもう一人の男は、その親子を手助けしているのだろう。

やがて車に乗り移った一行は走り去っていく。地元警察に追われれば、真夜中の道をヘッドライトを消して暗視ゴーグルをつけて運転する。

追っているのは政府だけではないことがすぐにわかる。地元のカルト教団も追っていた。正確には政府やカルト教団が追っているのは、少年を誘拐したとする父親ではなく、誘拐されたとする少年のほうだった。

政府が少年を追う理由とは、カルト教団が手にしていた数字の羅列が最重要国家秘密であり、その少年がどうやってそれを手にしたのか突き止めるため。そしてカルト教団は、その少年が持つ超常的な力が世界の終わり(最後の審判)を乗り越えるために必要だと考えているためだ。

事実、少年には自分を監視しようとする人工衛星を地上から破壊したり、相手の考えていることを読み取るなどの恐るべき力が秘められている。一方で少年は徐々に衰弱していく。彼は一体何者なのだろうか? そして彼が向かおうとしている場所には何が待っているのだろうか?

前述したがストーリーそのものはシンプルだ。少年だけが知る特別な場所に向かうためにだけにその父と友人そして母が、命をかけて少年を守ろうとする逃走劇だ。

そして各イベントごとには、様々なSF映画への言及が見受けられる。例えば、少年が隠れながら読んでいる漫画とは『スーパーマン』で、『マン・オブ・スティール』でゾッド将軍を演じたマイケル・シャノンが少年の父親役であることや、ジェフ・ニコルズ監督は一時DC映画の『アクアマン』への抜擢が噂されたことを知っていればクスリと笑えるシーンでもある。しかしそれ以上に『未知との遭遇』、『E.T.』、ジョン・カーペンターズに大友克洋といったジェフ・ニコルズが影響を受けた先輩たちへの意識はあからさまで、その点でエイブラムス監督の『スーパー8』や『宇宙人ポール』を彷彿とさせる部分もあるが、終盤に明かされる少年(の超能力)の意味と、いわく言いがたいラストシーンによって、全く別の想いへと上書きされることになる。

ラストシーンについてはネタバレしない。自分の言葉ではとてもうまく説明できそうにないし、下手な解釈を放り込みたくもない。そこに何を見出すのかは、観客に委ねられるべきシーンなのだ。

それでもすでに述べている本作の「光」については言及したい。

少年にとって唯一の弱点と思わているのが太陽の「光」だ。少年が水泳ゴーグルのようなサングラスを掛けているのはそのためだ。また時々少年は自分の力をうまくコントロールできなくなることがある。そんな時は目から青白い強烈な光線が放たれる。しかし心身とも状態のいい時は掌や体のなかに不思議な発光体を宿すこともできる。つまり少年自体が「光」でもあるのだ。

本作のタイトルの意味をここで思い返してほしい。「Midnight Special」とは「深夜列車」という意味以外にも、囚人たちが渇望する自由の象徴としての意味もある。その原型となったレッドベリーの歌は1930年代に作られている。当時の南部の刑務所にはただ白人に逆らっただけで投獄された黒人も多数いたことだろう。理由なき囚人にとっての叶わない自由への想いを乗せて走っていたのが「Midnight Special」だった。

つまり本作では超能力を持った少年こそが「自由の象徴」なのだ。では囚人とは一体誰なのだろうか?

80年代のSF映画に多用された「光」とは、映像ではまだ明らかにできない主題の神秘性の拠り所としての意味があった。主題を「光」に包むことで、そこに隠された意味や意図を、映像としてではなく、物語として描く必要が生まれる。その過程や手段や方法にこそSF映画の価値が潜んでいた。ある映画では難解な暗号のようでもあり、ある映画では多数のサブテキストの参照が必要とされた。90年代後半にもなるとそういった努力は無視され、これまで「光」(見えないもの)で表現されてきたことをCGでつまびらかにすることがSF映画の姿となった。『ブレードランナー』や『2001年宇宙の旅』を解き明かすのに数百ページが消費されることは珍しくもないが、『インデペンデンス・デイ』にはそんな分量は必要ない。別にその傾向全てを否定したりしないが、同時に過去のSF映画の文脈も否定されるべきではない。

そして2016年の現代にあってジェフ・ニコルズ監督はSF映画の枠組みの中で臆面のなく「光」を描いた。しかもその「光」を主題の代替としてではなく、主題そのものとして描いて見せた。聖書が神の「光あれ」という言葉から始まるように、ジェフ・ニコルズはSF映画が困難な時代に「光」が生まれるその瞬間を切り取ったのだ。

80年代というまだSF的主題を「光」でしか描けなかった時代とは違い、全てをCGでまかなえるようになった現在。神秘や超自然や奇跡さえもが映像で丸裸にされる時代。そんなSF映画受難の時代にあって、今では必要のなくなった「光」の価値を再構築することが本作の意図だった。

「光」とは常にはるか前方を走る未来である。少なくとも80年代のSF映画で描かれた「光」とは、それが善であれ悪であれ、平和であれ破壊であれ、我々人類がいつかきっとたどり着ける未来として提示されていた。そして2016年、ジェフ・ニコルズは全く違った価値としての「光」をSF映画という枠組みの中で描いた。

映画のラスト、少年は「光」となる。でも我々は「光」にはなれない。ある者はその「光」を満足げに見送るのかもしれない。ある者は全く理解できずに呆然とするだけだろう。またある者はそこに宗教的な意味を強引に求めるのかもしれない。いずれにせよ、我々はただ「光」を見送るだけの存在でしかない。そこにたどり着けるわけでもなく、そこに含まれるわけでもない。それはただの「光」だ。「光」はぼくらをマザーシップに招いてはくれない。虹をかけることで別れを惜しむことはない。子孫を委ねたりもしない。失った友たちの幻影を写してもくれない。ただ光り、去っていく。

そして『Midnight Special』とはただ通り過ぎていくだけの「光」に叶わぬ夢を託す我々の物語でもある。シュガーランド刑務所の囚人たちが深夜に通り過ぎる臨時列車の光に自由を求めたように、規制まみれの不自由な世界のなかで、唯一自由が許される想像力の発露を描くのが『Midnight Special』なのだ。

映画のラスト、スクリーンに「光」が生まれる。そしてその「光」はもうあの頃のようにぼくらを導いてはくれないし、ぼくらもまた無邪気にその「光」を追いかけたりはしない。それはただ我々の前を悠然とただ通り過ぎていくだけの『Midnight Special(深夜列車)』でしかない。

『Midnight Special』:

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