映画『孤独のススメ』レビュー「孤独という希望の病」

オランダ映画『孤独のススメ』のレビューです。妻に先立たれた孤独な男のもとに現れた不思議な男。突然はじまった共同生活を通して主人公が知る「孤独」の効用とは? 2016年4月9日より全国順次ロードショー。

メイン2

『孤独のススメ』

日本公開2016年4月9日/オランダ映画/86分

監督:ディーデリク・エビンゲ

脚本:ディーデリク・エビンゲ

出演:トン・カス、ロネ・ファント・ホフ、ポーギー・フランセ、アリアネ・スフルーター

公式サイト:孤独のススメ


レビュー

「絶望こそが死に至る病」というキュルケゴールの言葉に間違いはないだろうが、その絶望とは神との関係喪失や、そこから派生する孤独によってもたらされるという考え自体は、現代ではなかなか受け入れられない。ツイッターやフェイスブックやLINEなどの「孤独を防ぐ」装置が溢れた現代においては、「孤独を防ぐ」ために神経を尖らせ周りの意見や視線に過剰に反応した結果、自分自信をすり減らすことも珍しくない。

しかしこういった現象は必ずしも現代的なものでもないのかもしれない。現代の「SNS疲れ」という現象を、ツイッターを聖書に、フェイスブックを教会に、LINEを宗教的コミュニティに置き換えれば、きっと中世の時代から似たような現象は「宗教疲れ」という形で現れていたのではないだろうか。孤独を防ごうとするほどに絶望は近づき、神を求めるほどにそれは去っていく。

本作『孤独のススメ』はタイトルにある通り、真の孤独を経験することでこれまで隠蔽されてきた本当の自分自信と向き合うことを描いた作品だ。余計な装飾や説明を一切排し、数少ない登場人物の心模様さえも最低限しか描かない。まるで誰もが硬い殻を背負ったまま生きているようで、何を考え、何に悩んでいるのかよくわからないまま、最後に主人公がその殻を脱ぎ捨てる瞬間の感動とは、シンプルであるが故に心強い。

Ks 03

主人公は妻に先立たれた孤独な男フレッド。オランダの保守的な村に暮らす彼は日曜日に教会に行く以外に人と接することはない。そんなある日、村に不思議な男が迷い込んでくる。男の名はテオと言うが、言葉はほとんど話さない。ふとしたきっかけでテオに食事を与えたフレッドは、身元不明のテオを自分の家に住まわせるようになる。

最初は困ったテオを助けるフレッドを聖書に登場するユダヤ人から差別を受けながらも困ったユダヤ人を助ける「善きサマリア人」に例えられたりもするが、フレッドの奇行が明らかになることで周りの住人は二人を奇異の目で見るようになる。

そんなある日、スーパーマーケットで買い物中に山羊の鳴き声を真似するフレッドに感心した家族が、娘の誕生日会の余興に出演してくれるように依頼してくる。こうして孤独なフレッドと、不思議な男テオはコンビを組むことになる。しかしそんな二人を周りはキリスト教の教えに背く存在として非難するのだった。

News header matterhorn 201601 02

本作は日常に溢れる様々な常識や道徳というものが「しがらみ」となってその人の生き方をどれほどまでに制限しているのかを描いており、その枠外から突然現れた闖入者テオによって本当に望んだ人生を発見するという内容になっている。自分さえも知らない本当の自分の姿を、外から来た闖入者によって教えられるというストーリーは、例えば『レインマン』やケヴィン・スペイシー主演の『K-PAX/光の旅人』、最近では『パディントン』でも使用されていたよくある構造なのだが、それらの作品では闖入者の積極性によって物語が展開していくのに対し、本作では闖入者テオは積極性とは無縁のただただ不思議な存在であり続け、物語の中心に立つことはない。

しかもセリフも少なく、説明パートはほとんどなく、音楽も必要最低限しか流れないため、序盤は退屈に感じるかもしれない。そして主人公フレッドを縛り付けていた宗教的道徳も、プロテスタントのなかでも原理的な傾向の強いカルヴァン派であることが示唆されており、陰鬱とした雰囲気を作り出している。

本作では説明がないが、フレッドらの住む村の教会が属すると思われるカルヴァン派とは人類とは例外なく罪深き存在であり、神様から救われるかどうかに人生における善行は関係なく、あらかじめ決められているとされる予定説を唱えている。つまり人間と神様の関係とは相互通行が許されたものではなく、神からの一方通行でしかないということだ。

こういった教義としての不寛容さを背景に、妻を失い、一人息子も訳あって家から出て行ってしまっている主人公フレッドは、食事のたびに祈りを捧げ毎週教会に参加しながら、絶望した人生を送っている。宗教的には善き人でも、善き人生を送れる訳ではない。そして闖入者テオの役割とは、フレッドをこの矛盾から生み出された絶望の源流へと連れ戻すことにある。

1966projDesc27taq7jb4

誰もが人からよく思われたいと思うものだろうが、どれだけ気に入られようと努力したところで、本当に他人から気に入られているのかなんて分からない。翻って自分について思いを巡らせば、他人への評価など他愛もないことでいくらでも逆転するし、ひどい場合は自分の気分次第で好き嫌いなどはいくらでも変わってしまうものだ。しかしそれでも「よく思われたい」という願望はなかなか消えず、やがてはその人からどう思われているかではなく、推奨される社会的コードに沿って生きていけば「よく思われる」と勘違いしてしまうこともある。結果、冒頭に書いたように自分自身をすり減らし、絶望感を募らせてしまう。

本作『孤独のススメ』はそういったスパイラルから主人公が自分の足で抜け出す過程を描いている。宗教的なしがらみから抜け出すというのもそのひとつだが、それ以上に自分自身が長い人生で積み上げてきた檻から自分の足で抜け出すことを描いている。そしてそのためには孤独は絶対に必要な状況だった。

そして宗教的な「しがらみ」から抜け出したことで、本編のラスト、フレッドは本当の意味での「善きサマリア人」になる。この「善きサマリア人」の価値とは歴史によって度々変わってきている。ユダヤ教の律法主義の誤りとする考えもあれば、キング牧師は人種差別の否定として捉えた。そして本作ではそこからさら発展させ性差別(もしくは同性愛差別)の否定としても描かれている。

孤独でなければ気がつかない本当の姿がそこにあり、孤独でなければ存在しない出会いがそこにあるということ。

本作で最も印象的だったのが、フレッドとテオを非難し続けてきた隣人が二人の自由さを前に打ちひしがれるシーンだ。孤独と向き合ったフレッドからは希望と自信が溢れていたためだ。

冒頭に引用した「死に至る絶望という病」という思想家キュルケゴールの言葉には「死に至らない病とは希望でもある」という続きもある。だとするのなら孤独という病は決して死に至る絶望の病ではなく、希望の病なのだろう。

『孤独のススメ』;

<スポンサーリンク>

ポスタービジュアル
21bc57ee8459e083d6a99e8e584c8561.jpg
おすすめ記事!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です