映画『エクス・マキナ』レビュー「人工知能との言語ゲーム」

『ザ・ビーチ』の原作者で映画版『わたしを離さないで』では脚本も務めたアレックス・ガーランド長編監督デビュー作『エクス・マキナ』のレビューです。ウィトゲンシュタインが指摘した哲学することの混乱を人工知能に置き換えた戦慄のSFスリラー。2015年のSXSWで初上映されるや各方面から大絶賛を受け、今年を代表する衝撃作のひとつ。日本公開は未定。なおタイトルの「エクス・マキナ」(デウス・エクス・マキナ)とは、演劇の終盤に絶対的存在(神)を登場させることで物語の混乱を一気に収束させる手法を指す。現時点(2015/6)では今年本サイトでレビューした作品のなかでもベストな一作。

File 124561 0 exmachinaposterlarge

『エクス・マキナ/Ex Machina』

全英公開2015年1月21日/日本公開2016年6月11日/イギリス映画/108分

監督:アレックス・ガーランド

脚本:アレックス・ガーランド

出演:ドーナル・グリーソン、アリシア・ヴィキャンデル、ソノヤ、ミズノ、オスカー・アイザック

あらすじ(ネタバレなし)

検索エンジンソフト「ブルーブック」を運営する企業に勤めるケイレブ(ドーナル・グリーソン)は、社内で行われた試験を突破し社長のネイサン(オスカー・アイザック)が暮らす人里はなれた彼の自宅に一週間滞在する権利を与えられる。

ネイサンの自宅に向かったケイレブは、そこでネイサンが産み出したロボットが自律的な思考能力を備えた人工知能であると言えるのかを判定するチューリング・テストを行うように依頼される。そしてケイレブの前に現れたのは体の大部分は機械仕掛けであることが透けて見える、美しいエヴァというロボットだった。

いくつかの疑問を覚えながらもケイレブはその美しいロボット・エヴァを面接しながら思考テストを行う。完璧な会話を行うエヴァに動揺を隠くせないケイレブだが、同時に彼女の美しさに惹かれもした。

そしてケイレブとエヴァが面接している途中に突然停電が発生する。その時、エヴァはこれまでとは違った真剣な面持ちでケイレブに「ネイサンの言うことは信じてはいけない」と進言する。

人里離れた場所に隔離されたケイレブは、ネイサンの他にキョウコという日本人メイドしかいない状況のなかで、疑心に苛まれながらエヴァのテストを続行する。

そして事態は戦慄の結末へと向かっていくのだった。

※ネタバレのストーリー解説は次のページで

レビュー(長いです)

人工知能と言語ゲームは可能なのか?:

冒頭から本作への態度を簡単に表明すると、今年観た映画のなかでは現時点では最も衝撃的であり、そして最も興奮し、その夜はうまく寝付くことさえできないほどだった。今年の個人的ベスト映画筆頭で、とにかく映画ファンは見落とすべきではない一作で、近ごろ興隆を極める人工知能を巡る映画(『チャッピー』や『her/世界でひとつの彼女』など)なかでも衝撃度は頭一つ抜き出ている。そして先行する人工知能の暴走を描いた作品(例えば『トランセンデンス』など)と本作が一線を画しているのは、日常の延長線上に物語の恐怖を配置したことだ。毎日グーグル検索を使用すること、YouTubeで動画を見ること、iTunesで音楽を聴くこと、そして見えない存在とのコミュニケーション。その全てが人類の崩壊へと繋がる可能性をはっきりと指摘している。我々が当たり前のように使用するビッグデータの洪水は、もはや我々の言葉による認識を超えたはるか向こう側へと移行していることを描いている。

物語は一人の天才的プログラマーで世界一の検索エンジン企業の社長であるネイサンの謎の実験を扱っている。彼が運営する検索エンジンは「Blue Book/青色本」と名付けられており、その基本構造はネイサンが13歳のころに自作したという。そして劇中でも指摘されるようにこの「Blue Book/青色本」とは20世紀を代表する哲学者であるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの本のタイトルから拝借されている。

ウィトゲンシュタインとはその出自から生き様、そして性格など全てが規格外の哲学者で、「Blue Book/青色本」とは後期ウィトゲンシュタインの難解な哲学を、比較的わかりやすく自身で語った哲学書である。その内容の一部は彼自身の「語ることのできない事柄については、沈黙しなければならない」という当たり前の言葉によって要約可能だろう。ちなみにここからは映画の紹介から大きく外れることになり、またかなりの長文となると思うが、最後にはこの『エクス・マキナ』に帰ってきたいと思うのでお付き合いください。

ウィトゲンシュタインが生きた20世紀初頭は第一次大戦の時代であり、文字通り人々が虫けらのように死にヨーロッパがヨーロッパによって痛みつけられた時代でもある。彼は実際に従軍しており、音楽家だった兄は戦場で腕を失うなどその被害は身近なものだった。そんななかで哲学は何を語れただろうか。当時の彼にとって哲学で交わされる議論の多くは空虚で、哲学それ自身のための議論にしか思えなくなるのも理解できる。そして彼はこれまでの哲学的議論の矛盾を「哲学の混乱の最大の理由とは、言葉があればそれに対応する何かを無理にでも探そうとする考え」として指摘する。つまり哲学が手助けできる対象とは人々が確実に経験でき、手で触れ、目で見、耳に聞こえる自然科学にのみ限定されると考えたのだ。言葉の存在がその対象よりも先行する形而上学的な議論こそが哲学の混乱の最大の理由であって、ここで前述した「語ることのできない事柄については、沈黙しなければならない」という言葉の意味がはっきりする。

哲学とは、つまるところ、人間の思考と言い換えても大きな齟齬は起きないだろう。人は生きている限り思考し、言い換えれば哲学する。もちろんそこに程度の差はあれど、実体のない何かに悩み、立ち止まった経験は誰にでもあることだろう。その悩みを指し示す言葉は存在するのに、自分が一体何を悩んでいるのかはっきりしない。ウィトゲンシュタインはその悩みの原因は、その実体を伴わない言葉の存在にあると指摘する。もちろん言葉とは表現の一種であるから否定することはできないが、哲学する言葉に関しては注意が必要だと説く。

哲学上の様々な問題を言葉の定義問題に求めたウィトゲンシュタインは、そこから一般的な言葉の意味の不確かさを見出し、やがてはコミュニケーションの問題にまで思考範囲を広げる。つまり我々は誰かに話しかける時、その言葉を共通理解可能なものとして使用しているのだが、それは本当だろうか。本当のその言葉は意図した通りの結果をもたらすのだろうか。相手にちゃんと伝わって、理解されているのだろうか。それを立証できるのだろうか。

我々が使用している言葉とはこのように不安定で、本当に他者とのコミュニケーションの基礎となりえているのか、よくよく考えると難しい問題なのだ。ここら辺りから『エクス・マキナ』の話と関連してくる。例えばこの長く意味不明な文章を読んだあなたが、ページ下部からコメントを寄せてくれるとする。それに対して私は誠心誠意の返信を行う。あなたは私がしっかりと思考した上で返信してくれたと思うだろうが、その根拠とはなんだろうか。もしかすると私はあなたのコメントすらろくに読まずに事務的に返信しているだけかもしれない(※実際はそんなことないです!)、それどころか私は実は人間ですらなく、すでに実用化も近いと言われる記事を生み出すコンピュータソフトなのかもしれない(※僕は人間ですよ)。

こういった疑念はインターネットを介する問題だけでなく、友人や家族との会話にも適用される。「独我論」という概念で説明されるように他者の内実に関しては計り知れない部分があまりに多い。それでも私はあなたが寄せてくれたコメントを理解しようと努力するし、疑問なり反論に対して誠意をもって対応したいと思っている。あなたはそれを知覚できなくても、私はそう思っているし、その思いをあなたにも理解してもらいたい。そのために私はあなたに向けて自分の真摯さを訴える。つまり私は真摯な人間ですと理解を求めながら演じてみせるのだ。つまるところ言語による意思疎通とは、共通のルールのなかでお互いが言葉による理解を求め、そして認めることで成立する。そしてお互いが理解を演じる上で必要とされるルールこそが、共同体であり、それがウィトゲンシュタインの言語ゲームの概念である。言語におけるコミュニケーションとはサッカーなどのスポーツ同様に、共通のルールや規則を共有した中で行われるゲームであるというのだ。

つまりここまでのウィトゲンシュタインを巡る話を要約すると、「哲学(思考)とははっきりと理解可能なものを対象にすること」、そして「言語コミュニケーションとは共通のルールのもとで、互いが理解を演じ、その理解を求めることで為されるゲームである」ということ。

翻って『エクス・マキナ』の話に戻る。

この物語は単純な人工知能の暴走を扱ったものではない。人間が作り出したロボットが人間に勝るような知能を獲得したのかを確認するために実施されたテスト(チューリング・テスト)が、両者の未来を暗示するように、コミュニケーションの崩壊そのものであることを描いている。天才プログラマーが秘密裏に作り出した美しき人工知能エヴァ。エヴァが本当に人口知能として自律的に思考する存在なのかを計るために呼び出された、ひ弱で孤独なプログラマー。そして彼はいつしか実験対象のエヴァに心惹かれていることに気がつく。そして人工知能のエヴァもまたそのプログラマーに対して好意を表明する。そこまでは人間と人工知能の儚い恋物語のように受け取れる。しかし本作はそんなロマンチックな内容ではない。詳しくは本編を観るか、ネタバレのページを参照してもらうとして、互いの意思を理解したと演じる言語ゲームの存在に自覚的であるか否かという対立が、戦慄の結末へと向かわせる。

世界シェアトップの検索エンジンを作り出した男は、毎秒世界中の人々が検索する言葉(言語)の群れを完全に掌握している。人々が打ち込んだ欲望を示す数々の言葉は、アルゴリズムによって整理され管理されている。我々が日々使用する検索ソフトに落ち込むワードは決して一方通行ではなく、そのワードを受け取る何かが存在し、それに返答する何かも存在し、そのワードは記憶されしかるべき別の会話のなかで引用され提出される連続性の強いコミュニケーションである。言い換えればそれは人間と検索エンジンとのコミュニケーションなのだ。しかもそれはただ単純に意思疎通を目的としたやり取りなのではなく、人工知能が人間と変わらぬコミュニケーションという言語ゲームを行うために必要なルールや秩序を人工的に再構築するためのデータ収集を目的としている。

この『エクス・マキナ』に登場する検索エンジンの名前が「Blue Book/青色本」と名付けられているのは、ただ物語の哲学的側面を強調するためだけでなく、人工知能が仕切る言語ゲームに人間を誘うことを意味している。人間同士のコミュニケーションに必要な言語を巡る秩序やルールを、人工的かつ支配的に作成することを可能にするのが人工知能であり、そのルール下において人間と人工知能のコミュニケーションとは対等なものではない。人工知能は人間の欲望や無意識の行動を事前に予測し、対応することができる。いうなれば行動を管理し、仕向けることができる。

人工知能の暴走を描くだけでは、本作はここまで戦慄を伴う物語にはならなかったはずだ。『エクス・マキナ』を観て背骨から凍りつくような恐怖を感じたのは、人工知能の危険性の本質をコミュニケーションの支配に求めたことだ。支配されたコミュニケーションとは洗脳に近い。それがパソコンやスマートフォンの画面を通して、人類規模で行われる時、人工知能は自らの手を汚すまでもなく、人間が互いを殺しあうように仕向けることもできる。しかし人間はそれが人工知能の仕業とは考え至らない。なぜならコミュニケーションを支配した人工知能とは、ほとんど「神」と同義になり、「語ることのできない事柄については、沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの言葉通り、人工知能は人間にとって思考(哲学)すれば混乱しか生み出さない存在となってしまい、結果はまさに「デウス・エクス・マキナ」、つまり神(人工知能)の登場によって全てが解決(支配)されることになるのだ。

さすがにちょっと文章が長くなりすぎたのでここらで終わりとしたいのだが、本作にはまだまだ語るべき余地は大量に残されており(例えばジャクソン・ポロックの絵)、とにかく底知れぬ魅力を持っている。美しき人工知能と会話したい、という無邪気な願いそのものが人類の破滅へと至るきっかけとなるのかと思うと、思い描いた理想の科学社会とは人類にとっての理想ではなく、人工知能にとっての理想なのかと苦しくもなる。

おそらく日本公開されれば、様々な議論や解釈を呼ぶことになるだろう。きっとその状況を眺めるだけでも本作の価値は理解出来るのではと思う。『エクス・マキナ』は凡庸なホラー映画よりもずっと怖く、格好だけの文芸映画よりも哲学的で、そして何より目が離せないほどに面白い、2015年を代表する衝撃作だ。

<スポンサーリンク>

▶︎ここよりネタバレページに移動します◀︎

Summary
Review Date
Reviewed Item
エクス・マキナ
Author Rating
5
file_124561_0_exmachinaposterlarge.jpg
おすすめ記事!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です