【映画】『猿の惑星:新世紀』レビュー ※後半部にネタバレあり

2011年の『猿の惑星:創世記』の続編で、シリーズ通算8作品目となる『猿の惑星:新世紀』のレビューです。前作で描かれた、人類と知性を獲得した猿人類との対立関係から一歩踏み出し、物語の主体が人類ではなく“猿人類”側にある本作。公開前から話題の作品でしたが、前作の人類の盲目的な発展への警鐘という意味合いから、より社会的なテーマを扱った作品に仕上がっていました。日本公開は2014年9月19日です。

関連記事:9月19日公開『猿の惑星:新世紀』の最新情報

NewImage

・ストーリー、前半 ※ネタバレなし

人類と、知性を獲得した猿人類との対立の過程から発生した人造ウィルスは瞬く間に世界中に拡散し、それから10年後、人類の大半は死滅してしまった。なんとか生き残った人類は小さなコロニーを形成し何とか生き延びる道を模索する。

一方、人類社会から解放された進化した猿人たちは手話を駆使し互いにコミュニケーションを取りつつ、最初に知性を獲得した猿のシーザー(アンディ・サーキス)をリーダーにして「猿は猿を殺してはならない」という教育を徹底し、違う種の猿人たちも同じ社会で平和に暮らしていた。

ある日、サンフランシスコのコロニーから森を訪れていた数名の人間たちが、川で漁をしていた二名の若い猿と偶然にも遭遇してしまう。そして銃で武装していた1人の男が猿に発砲してしまう。銃声を聞きつけた猿たちは一斉に現場へと集合。人間たちを取り囲む。グループのリーダー格マルコム(ジェイソン・クラーク)は即座に降伏の態度を示すと、怒りの形相を浮かべたシーザーは「立ち去れ!/Go!」と叫ぶ。言葉を理解する猿人たちの存在を見せつけられた人間たちは混乱するもコロニーに帰り、その事実をコロニーの代表者であるドレフェス(ゲイリー・オールドマン)に告げる。しかしコロニーの住民がパニックになることを恐れたドレフェスはその事実を誰にも言わないように命令する。

そして猿人たちの社会でも、人間が一方的に攻撃してきておきながら反撃しなかったシーザーの対応に、過去に人間から激しい虐待を受けた経験を持つ武闘派のコバから批判の声があがる。猿人たちの家族を第一に考えるシーザーであったが、人間たちに猿の脅威を知らせるために、仲間を引き連れて人間のコロニーに訪れる。パニックになる人間たちに対し、シーザーは人間の言葉で「猿人たちは戦争を望んでいない。しかし必要ならば闘いも恐れない」と宣言。そしてここが人間たちの家(ホーム)であることを認めつつ、山は猿の家(ホーム)であり、二度と猿の家には近づくなと警告する。

しかし電力獲得のためには山にあるダムの復旧が欠かせない人類にとって猿たちは脅威でしかなく武力によって制圧する方向で話が進むが、猿との接触によって彼らにシンパシーを覚えたマルコムはダムの復旧と猿との和平を両立するようドレフェスに進言。マルコムは自身の家族も連れ立って猿の説得のために山に入る。一方でドレフェスは闘いに向けて大規模な武装を開始していた。

シーザーの元に再び現れたマルコムは、ダムの復旧の必要性を説き、持ち込んでいたすべての銃の廃棄を条件に作業の許可を得ることに成功する。しかしこのシーザーの対応に、人類が武装を開始したことを知ってしまったコバは人類を皆殺しにするよう訴え、「シーザーは猿よりも人間が好きだ」と吹聴する。激怒したシーザーはコバを打ちのめすも「猿は猿を殺してはならない」という言葉を思い出し、コバを許す。

人間と猿の共存の道が微かに見えたかと思ったが、ある出来事をきっかけにして事態は急激に動き出す。そしてそれはシーザーの真意を超えて、後戻りできない場所まで行き着いてしまうのだった。

・感想 ※ネタバレなし

2011年公開の前作『猿の惑星:創世記』は知性を獲得した猿シーザーが人類からの自立を目指し戦う物語となっており、リブート・シリーズ2作目の本作『猿の惑星:新世紀』は個人の自立から、それらが集団として社会性へと至る過程で問題となる権力の暴走を描いている。そのため本作『猿の惑星:新世紀』では前作よりも物語の主体が大きく猿側に移動している。人類は猿にとっての単純な対立相手としては扱われておらず、暴走してしまう猿人たちの社会の先駆的示唆であり、テキストのような存在として描かれている。

この新旧『猿の惑星』シリーズに共通して言えることは、そこに様々な物語的な比喩が含まれていると言うこと。旧シリーズ(第1、2作目)では60年代後半の日本を先頭とする当時の第三世界の脅威を“猿”として描いていたと言われ、シリーズの特徴としてその時代を鏡として比喩的に映し出している。

その意味で本作では「銃」がとても重要な存在として物語上で機能している。アメリカではなかなか進展してこなかった銃規制の問題も、ここ数年の度重なる銃の悲劇によって少しずつ世論も変わりつつある。その潮目の変化を読み取ったかのように、本作では銃とその使用者の悪魔的契約の姿を、人間と猿の両面から描いている。一向に銃と距離を置けないアメリカ社会の病巣の行き着く先として、本作では孤立し先細って行く人類の姿が用意されており、銃の誘惑に破れた猿たちの姿にもまた、アメリカ社会において刹那的に銃の悲劇を繰り返す犯罪者(=破滅者)の姿が重ねられる。

人間と猿人の対立を種族によって隔てるのではなく、そこにある意思と行為によって物語の対立軸を作り出しているためメッセージの普遍性は前作よりも高まっている。SF映画だからこその設定である。

ただし前作よりも世界観のスケールは大きくなっているものの、描かれる舞台のほとんどが猿人たちが暮らす山のなかとサンフランシスコにある人間のコロニーの二カ所のみのため、2時間の尺が少し長く感じた。出来れば90分に収めてもらいたかった。アクションシーンに関しても、物語構成上仕方のないことなのかもしれないが、前作ほどの高揚感はなかった。それでも監督が『クローバーフィールド』のマット・リーブスに変わったことと関係して、人間側と猿側の両方のパニック感覚の演出はよく出来ていた。前作よりドラマ性が重視されている。

そして本作を語る上ではモーション・キャプチャによる猿たちの演技にも言及しなければならない。この映画の出演クレジットに最初に出てくるのは、人間側の主役であるジェイソン・クラークではなく、アンディ・サーキスである。動きも然ることながら表情も驚くほどリアルで、怒りや同情や哀れみなどの感情をしっかりと表現し分けている。特に最初の10分ほどは人間が全く登場せず(モンタージュは除く)猿たちの生活の風景が描かれるのだが、そのリアリティが凄まじく、ずっと観ていたい気分になる。特に動物好きの方にはたまらないと思う。

猿を描いた映画であっても、それは我々を描いた映画でもあることが重く身につまされる。

<スポンサーリンク>

▼次のページにストーリー後半部のネタバレを行います▼

NewImage.png
おすすめ記事!

2 件のコメント

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です