映画レビュー|『アナーキー』-映画と演劇の綱渡り

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『ハムレット』に続き、マイケル・アルメイダ監督がイーサン・ホークと組んでシェイクスピア 劇「シンベリン」を映画化した『アナーキー』のレビューです。現代のアメリカを舞台に、若い男女の報われない恋愛、ギャングと悪徳警官との抗争、そして詐欺師の姿を、シェイクスピアの戯曲になぞらえた本作。2015年6月13日より日本公開。

『アナーキー/Cymbeline』

全米公開2015年3月13日/日本公開2015年6月13日/アメリカ映画/97分

監督:マイケル・アルメイダ

脚本:マイケル・アルメイダ、ウィリアム・シェイクスピア

原作:ウィリアム・シェークスピア『シンベリン』

出演:イーサン・ホーク、エド・ハリス、ミラ・ジョヴォヴィッチ、ジョン・レグイザモ、ダコタ・ジョンソン他

あらすじ

ギャングのボスであるシンベリン(エド・ハリス)の娘イモージェン(ダコタ・ジョンソン)は幼馴染で愛し合うポステュマスと結婚を誓うも、シンベリンによって現妻のクイーン(ミラ・ジョヴォヴィッチ)の子供であるクロートンとの結婚を強要されてしまう。親の都合によって引き裂かれてしまった二人だが、気持ちは絶対に離れないことを誓い合う。

そこに現れた詐欺師のヤーキモー(イーサン・ホーク)は傷心のポステゥマスに賭けを提案する。イモージェンの心がポステゥマスから離れる方に賭けたヤーキモーは、こっそりとイモージェンの寝室に忍び込み、二人の愛の誓いだったブレスレットを盗み、そして彼女は自分に体を委ねたと偽称する写真を取る。

絶望するポステゥマス、そしてイモージェンもまた彼が自分のもとから去ってしまったと思い切望する。運命に翻弄される若いふたりの恋。そして暗躍するシンベリンの妻クイーン(ミラ・ジョヴォヴィッチ)や、詐欺師のヤーキモー。

やがて激化するシンベリンと悪徳警官との抗争のように、運命に翻弄される人々はひとつの結末に向かって突き進んでいく。

レビュー

映画と演劇が共有する、ギリギリのリアリティ:

イーサン・ホークとのタッグで『ハムレット』を現代ニューヨークに置き換えたように、マイケル・アルメイダは本作『アナーキー』でもシェークスピアの戯曲「シンベリン」を現代アメリカを舞台にして、セリフはシェークスピア演劇に忠実でありながらも設定を大胆にアレンジして挑んでいる。

ここで閑話休題、本作原題は「シンベリン」で、もちろん原作もシェークスピアの戯曲である「シンベリン」である。しかしなぜか邦題は『アナーキー』となってしまう不思議さ。『ロミオとジュリエット』の邦題を「悲劇の恋」と書き換えるようなものでまったく意味不明であり、日本人の知能指数の劣化に対応したつもりならば、大きなお世話、それはこの邦題を考えついた人にこそ当てはまるものだと思う。

さて本題に戻ると、本作『アナーキー』にはイーサン・ホークをはじめ、シンベリン役にはエド・ハリス、イモージェン役にはダコタ・ジョンソン、他にもミラ・ジョヴォヴィッチやジョン・レグイザモなど有名どころが名を連ねている。シェークスピアの戯曲からは設定を大胆に変更し、ブリテン王シンベリンをギャングのボス、敵対するローマ軍を腐敗した警察に置き換えているものの、セリフはシェークスピアの戯曲に忠実に作り上げられており、当たり前だがそのセリフ回しは現代的でなく仰々しい演劇的なそれとなっている。一方で演出法はリズムよくカットでつなぎ、演劇的な長回しを一切排した映画的なものになっている。

マイケル・アルメイダ監督は、『ハムレット』でもそうだったが、単純に古典劇を現代に復活させることを望んでいるのではなく、演劇と映画との積集合の可能性について映画の側から探っているのだろう。本作においてもその試みはとても興味深く仕上がっており、もちろん演劇も映画もそれぞれが独立した芸術分野であるも、演劇的な要素を映画内にもちこむことは無意味なことではないことがよくわかる。

原作の「シンベリン」は『オセロ』や『ハムレット』ほどに重要な作品と使われない理由としては、物語の展開が強引なロマンス劇だからと考えられているが、映画となるとその強引さもめまぐるしい展開として演出が可能となり、事実ラストに登場人物が一気に集結してひとつの結末に向かって突き進んでいく様は、見応え十分だった。また携帯電話やタブレット、インターネット、そして劇中でミラ・ジョヴォヴィッチが歌うボブ・ディランの『ダーク・アイズ』など、演劇でいうところの「小道具」の配置も冴えている。

実験的な作品ではあるが、シェークスピアの物語の娯楽性や普遍性に触れるという目的では、演劇よりも明らかに敷居は低いだろうし、演劇への入り口としても最適かもしれない。

しかしそれでもやはり演劇と映画には確実な差異が存在する。映画と演劇の積集合ではあるも、映画に徹したわけではない作品をどこまで評価できるのか、率直に疑問にも感じる。本作が演劇と映画、その両方のギリギリのリアリティに属する作品なのかもしれないが、そのギリギリを目指す意味や意図とはどこにあるのだろうか。

実験することが目的となってしまっていたとするのなら、やはり違和感は消えない。

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ということで『アナーキー』のレビューです。本文でも書きましたが、これが邦題が『アナーキー』となるのか理解できません。「シンベリン」でなぜ悪い?まあ、確かに無秩序のなかにある人間性を描こうとした作品ですけど、シェークスピアへの敬意とかはないんでしょうか。セリフとか基本そのままなんだよ。でも、そんなことを言っても本作を日本で劇場公開しようとした配給さんの心意気はまず評価されるべきでしょう。こういう映画が劇場で観られる機会は大切にしたいので是非ともご覧になってください。おすすめです。

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