映画 『5 Broken Cameras/壊された5つのカメラ』レビュー “パレスチナという一人称の問題”

 2013年度米国アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門ノミネート作、『5 Broken Cameras/壊された5つのカメラ』を観る。パレスチナ問題を扱いながらもよくある正義のジャーナリズム的視点からではなく、日常に根ざしてしまった圧倒的不条理を日常的な一人称で淡々と描いた本作。忘れ去られては、無情な暴力が発生することで再発見されるという歴史を繰り返してきたパレスチナ。催涙ガスが美しい花火のように飛び交う村で、そこで暮らす人々の喜怒哀楽を淡々と描いた良作。誰かに語りたくなるのではなく、自身の内側で問答せずにはいられない作品。

ストーリーイスラエルが建設を進めるユダヤ/パレスチナ分離壁の建設予定地に位置する村ビリン。そこに住むエマード(本作の監督)は四男のジブリールの誕生を機にビデオカメラを手に入れる。同時にイスラエルによって一方的に進められる入植拡大方針に抵抗する村人たちは金曜礼拝後にデモを行うことが日常となった。土地を奪われ仕事もなくなったエマードは生まれたばかりの赤ん坊の成長を記録しながら同時にピリン村の抵抗運動も撮影しはじめる。
 非暴力による抵抗運動を圧倒的な火力で抑えるイスラエル。その過程でカメラは一台、また一台と壊されていくがエマードは撮影を続ける。様々な村人たちの想いをを映しつつ、自身の息子ジブリールは 日に日に成長を続ける。やがてその記録は5年という月日を跨ぐことになる。
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感想以前から本作の噂は聞いていた。とくにパレスチナ問題に意識が高いフランスでは高い評価を受け、アメリカのサンダンス映画祭でも喝采を受けるに、2013年にはとうとうアカデミー賞にノミネートまでされた。リベラルで知られるハリウッドの人々も実はユダヤ系が多くアメリカ国内で強い影響力を持つことはよく知られているため、このノミネートはそれ自体が一つの達成だった。その流れで海外からDVDを仕入れてはいたが、なかなか観る気にならなかったのは、個人的な趣向として政治的な映画が苦手だからだった。とくにそれがパレスチナ問題というあまりに大きな無力感を対象とするドキュメンタリーなら尚更だ。正直に言えばわざわざ出口の見えない暗い気持ちにはなりたくない。
 この映画を観てみようと思った背景も決して政治的意識の高まりからではない。最近のシリア問題への各国の腰抜けぶりに嫌気がさしたことがきっかけではないし、横浜に行けば必ず顔を出すミニシアター「シネマジャック&ベティー」で公開されることになったのが理由でもない。先日、買おうと思っているビデオカメラの入荷情報を尋ねようとして訪れた映像機器レンタル会社で、この映画のワンシーンが流されていた。それは小さな村に無数の白煙を伴った“何か”が降り注いでいるシーンだった。粗い画質だったがそれが妙にシネマライクで美しかった。その“何か”とは催涙ガス弾だとすぐにわかるもなぜか妙に現実離れした美しいシーンに、不謹慎ながらも、思わず立ち止まってしまった。その映像がこの『5 Broken Cameras/壊された5つのカメラ』の一部だったから観た。ただそれだけ。

 この映画をフィルターにしてパレスチナ問題を語ることはしない。それはきっと別にパレスチナ問題に意識の高い他の人がしてくれるだろうし、そういうものを読みたい人は是非このリンク先よりご自身で訪れてほしい。

 タイトルに書いたように本作は一人称の作品だ。ドキュメンタリーが一人称で語られることは珍しくないし、そもそもドキュメンタリー作品が、いわゆるノンフィクション作品と一線を画していたのは語り手が使用する人称に寄るところが多い。あくまでドキュメンタリーとは記録なのだ。この作品、その意味では非常に古典的な作品といえる。しかしながらその古典的手法がパレスチナという場所で、しかも5年以上に渡って定点観測が継続されるというのは聞いたことがない。パレスチナ問題とは“ジャーナリズム”の主戦場であり、言わずもがな、ジャーナリズムとは言葉の意味的にも“日々新しく語られるもの”なのだ。このことからもわかるようにパレスチナは常に“点”として語られてきた。特にパレスチナ人による抵抗が先鋭化し、それがより大きな悪循環の流れを生みだすという不条理の一部をニュースとして語り、そこから人々はパレスチナ人の窮状を知りイスラエル政府やアメリカ政府を批判し遡ってはイギリス政府の3枚舌に責任の所在を求めるという、どこにも出口のない責任のボール交換を繰り返してきた。そこには“線”としてのパレスチナの過去と現在そして未来は見過ごされている。しかし実際にはそこで生活が行われている。
 この映画の最初のシーンで、銃声のような乾いた音が響き渡るなか一人の女性が顔色一つ変えずに屋上で洗濯ものを干している。まったく絶妙の冒頭だ。観るものはそこにある種の恐怖を感じる。昼間から銃声が響き渡る世界に大してではなく、そんな世界を日常として受け入れている生活がそこにあるということに。痛みにはなかなか慣れないが、恐怖には人はこうも慣れてしまう。しかしそれが日常としてそこにある以上、我々に何が言えようか。

 パレスチナ問題を日常として一人称で描く。それを可能にするためには語り手はパレスチナの現在に属していなければならない。その内部から日々を語るしか方法はない。ただそういった、方法論が限られたなかで作られた作品に往々に生じる問題として、作り手の主観が画面上に色濃く映し出されてしまうことが挙げられる。作り手がパレスチナ人ならどうしてもイスラエルを批判したくなるし、それが目的である。説教臭くなる。もちろんこの作品もその延長線上にあることは間違いないが、それでもこの作品にはそういった一種の打算的な視点を意識的排することで、パレスチナ問題に対する新しい視点を提供している。この作品が与えてくれる新しい視点とは、一人称の限界点にある。三人称的視点はよく神の視点と置き換えられるが、全てを均等に映し出しているかのように見える三人称視点こそ従来のジャーナリズム的視点と重なり、それは時に語り手の既存の思惑や思考への補強材料の探索で終わってしまう場合が多い。少なくとも私のように非政治的な意識の低い人間にはそう映ることが多い。
 しかし本作は不思議だ。聞いたこともなかった、生活する人々のリアルな声がはっきりと映されている。そこではイスラエルへの抵抗運動を英雄的には語らない。正確にはそうは語れないのだ。なぜならたとえそれが不条理な世界であろうともそこでしか生きられない人々が存在するから。 もちろんパレスチナの復権は彼らにとって最重要事項なのだが、現実に生きなければならないという前提は崩れはしない。

ジブリール

ジブリール

 大きくなり言葉での意思が取れるようになった監督エマードの四男ジブリールはやがて父にこう尋ねる。

 なぜパパはイスラエル兵士をナイフで刺し殺さないの。

 この5歳の無垢な子供の言葉を聞いたとき、誰もがハッと冷静を取り戻す。カメラに向かって呟かれたこの言葉は観客にも向けられている。この作品のクライマックスはここだ。パレスチナという一人称の問題は本質はここにある。

 なぜ我々はイスラエル兵士をナイフで刺し殺さないのか。

 たった5歳にしてこのような言葉を生み出してしまったジブリールに対して、我々はどのように答えればいいのか。この作品を観て考えてみてほしい。

映画 『5 Broken Cameras』

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